最高裁判所第一小法廷 平成8年(あ)204号 判決 1998年3月12日
主文
原判決を破棄する。
本件を大阪高等裁判所に差し戻す。
理由
検察官の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例は、事案を異にして本件に適切でなく、その余は、事実誤認、単なる法令違反の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
しかしながら、所論にかんがみ職権をもって調査すると、原判決は刑訴法四一一条一号によって破棄を免れない。その理由は以下のとおりである。
一 記録により明らかな本件の経過は次のとおりである。
1 本件公訴事実の要旨は、被告人は、昭和五二年一二月一六日常習累犯窃盗罪により懲役二年六月に、昭和五五年六月二四日同罪により懲役三年に、昭和五八年九月二九日同罪により懲役二年二月に各処せられ、右各刑の執行をいずれも受け終わったものであるが、更に常習として、昭和六二年一月二一日京都市下京区内の土井智方において、土井あい所有の現金約九〇〇〇円並びに財布三個及び印鑑一個(時価合計約七三〇〇円相当)を窃取した、というものである。
2 被告人が重度の聴覚障害者であるため、第一審から、被告人の訴訟能力の有無が争われたが、第一審裁判所は、被告人には訴訟能力に欠けるところがないとして、実体審理を行った上、公訴事実と同旨の事実を認定して、盗犯等の防止及び処分に関する法律三条、二条前段(平成七年法律第九一号による改正前の刑法二三五条)を適用し、被告人は音唖者であるとして右改正前の刑法四〇条後段により刑を減軽するなどして、被告人を懲役二年に処する旨の有罪判決を言い渡した。
3 これに対して、被告人から控訴の申立てがあり、原判決は、以下の理由により、第一審の訴訟手続には刑訴法三一四条一項の適用を誤った違法があるとして第一審判決を破棄し、事件を第一審に差し戻した。
(一) 被告人は、音声言語、文字言語はもちろん、体系的な手話や指文字(手指言語)も使用できず、意思疎通の手段としては、主として独自性の強いわずかな手話と表情、身振り、動作に依存せざるを得ない状態にある。また、被告人には、言語を習得しなかったことによる二次的精神遅滞がみられ、精神的諸能力のうち、非言語的な動作性知能の水準は、精神年齢九歳程度で、軽度の精神薄弱の範囲内にあるが、言語性の知能は、言語の習得に伴って形成されるべき一般的、抽象的概念と思考体系が欠けているため、測定不可能なほどに低い。このように、被告人の意思疎通能力は、手段の面で制約されているだけでなく、認識、思考の面においても、言語なき生活によって形成された概念や思考体系による表現と理解に限定されるから、その程度は極端に低く、あえてたとえるならば、三、四歳のレベルにある。
(二) 被告人は、単独で被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をなし得る能力を有しないだけでなく、防御上弁護人等の協力を求めるにしても、その前提となる意思の疎通がほとんど不可能な状態にある。すなわち、訴訟においては言語による交信能力と一般的、抽象的な認識、思考能力が決定的に重要であるが、被告人の場合、意思交信の手段が極めて乏しい上、一般的、抽象的な認識、思考能力がほとんどなく、意思疎通の範囲は極めて限定された状態にある。そのため、黙秘権、弁護人選任権などの言葉の意味を理解することができず、また、法廷における訴訟関係人の役割や訴訟手続の意味、各訴訟行為の内容、特に公訴事実に関する検察官の立証内容や訴訟の成り行き等の大筋を理解し、自分に有利な事実を弁護人に知らせ、弁護人と防御に関して相談することなどは到底できないから、このような被告人は訴訟能力を欠く状態にあるというべきである。
二 そこで検討するに、記録によれば、被告人の訴訟能力に関して以下の事実が認められる。
1 被告人は、先天性の重度の聴覚障害者であって、ほとんど満足な学校教育を受けておらず、少年時代から窃盗を常習的に敢行して、通算二五年間近く服役しており、聴覚障害者の教育施設に入ったこともない。聴覚障害のある兄妹との接触を除いては聴覚障害者と交渉がなく、健聴者との交渉のみで生活してきたため、音声言語、文字言語はもちろん、体系的な手話も十分使用することができず、独自性の強い手話及び身振り、動作といった非言語的手段を混然と使い、数字や人の名前など数少ない文字その他の具体的な手掛かりとなるものを加えて、他者との意思疎通を図っている。
2 このように、被告人は、言語を習得していないため、一般的、抽象的概念と思考体系が欠けており、言語性の知能は測定不能なほどに低く、抽象的、構造的、仮定的な事柄を被告人に伝達したり、被告人に理解させることは極めて困難である。また、非言語的な動作性知能についても、精神年齢が九歳程度にとどまる軽度の精神遅滞がみられるなど、被告人は精神的能力及び意思疎通能力に重い障害を負っている。
3 しかし、被告人は、生活に関連した直接的、具体的事柄や動作的、実用的概念に関しては、相手方の善意と努力に依存しているとはいえ、意思疎通に大きな支障はなく、意思疎通を図ることによって、被告人の理解の程度を推し量ることも可能である。また、被告人は、情緒的に安定していて対人関係が良いという性格特徴も寄与して、知覚的、動作的に直接経験から学ぶ適応の型を身につけており、柔軟な適応力、実用的知能を有している。特に、経験的、直感的な理解力は非常に鋭く、金銭的利害にも敏感で、他人の意見を聴きながら、自らの判断で親族に金銭を貸し付けることもある。他人に迷惑をかけないとか、社会的ルールや約束事は守らなければならないという自覚があり、第一審判決宣告後に釈放されてからは、周囲から援助を受けながら、土木作業員として働いて自活するなど、社会的適応能力は一応備えているということができる。
4 被告人は、多数の同種前科を有し、自ら何回にもわたって刑事訴訟手続を体験してきたことに伴い、刑事訴訟手続の流れについて相応の理解を有している。すなわち、被告人は、物を盗んだとして捕まり、警察署、検察庁、裁判所という流れで法廷に連れて来られ、自分を処罰するかどうかを決める手続が行われており、自分が盗ったかどうかが問題となっていること、裁判官に対しては自分の言い分を話すことができること、裁判官が自分に対する処罰を決め、その結果、刑務所に収容されること、弁護人は、自分を応援してくれ、早く帰してくれる人であることは理解しており、本件裁判がまだ終わっていないことも認識している。
5 第一審及び原審では、被告人に通訳が付され、各訴訟行為の内容について、通訳人による手話通訳が行われているが、被告人は、本件各手続において、以下のような対応をしている。
(一) 被告人は、捜査段階の当初から公判段階まで一貫して、「『三六歳の甲野太郎』が自転車やドライバー等を使い連続して住居侵入、窃盗をしているのを見ただけで、自分は盗んでいない。『三六歳の甲野太郎』を逮捕しようとして追跡し、同人が落とした盗品や自転車、ドライバー等を持っていただけなのに逮捕された。」などと具体的かつ詳細に供述して、自らの関与を積極的に否認している。
(二) 被告人は、捜査段階において、逮捕時に着用していた目出し帽を身につけて写真撮影することを求められ、当初は拒否し、後に警察官の説得によりこれに応じたものの、目出し帽を覆面のようにかぶった状態で写真撮影をすることについては、「これをかぶったら犯人になってしまう。」と述べて、最後まで覆面のようにかぶることを拒否し、これを頭の上にのせた状態で写真撮影に応じている。
(三) 被告人は、第一審及び原審の被告人質問において、後に摘示する部分を除き、積極的に応答しており、その内容も、被告人の手話が通訳できなかったり、質問が被告人に正確に伝わらなかったと思われる一部を除いて、概ね的確であり、その供述する記憶の内容も概ね正確である。
(四) 被告人は、第一審の被告人質問において、捜査段階における被告人の供述調書の作成方法について、警察官が勝手に作成した、自分は弁解録取書に指印していない、調書の読み聞けは、検察官にはしてもらったが、警察官にはしてもらっていない、などと供述している。
(五) 被告人は、第一審において、黙秘権の告知として、「言う」「言わない」「自分で考える」「できます」という被告人にも理解可能な四つの挙動で手話通訳を受けている。また、被告人は、被告人質問において、「黙っていてもいいということが分かりますか。」との質問に対し、「手話、黙っている、分かります。私、言いました。黙ってない、言いますと言いました。手話を上手にしてくれました。」と答えているほか、「裁判官というのは分かりますか。」との質問には、「はい、知っています。私はいろいろ言いたいです。」と答えている。また、本件公訴事実については積極的に否認供述をする一方、逮捕後に近隣民家の玄関先から発見された被害品に関する質問や、本件と直接関係のない盗品の隠匿場所に警察官を案内したとされる点に関する質問に対しては、「その話はやめてください。」、「その話はしません。」などと言って供述を拒否している。
6 そして、第一審における防御活動は、被告人が弁護人及び通訳人の援助を受けることにより自ら行うか、又は弁護人が被告人の意向を酌み取って行うことにより、本件公訴事実への関与を否認するという被告人の基本的な防御方針に沿った形で行われているということができる。また、第一審裁判所は、実体審理と並行して、被告人の責任能力及び訴訟能力についての慎重な審理を行っている。
三 以上の事実関係に基づき、被告人は訴訟能力を欠く状態にあるとした原判決の当否について判断を加える。
1 被告人は、重度の聴覚障害及び言語を習得しなかったことによる二次的精神遅滞により、抽象的、構造的、仮定的な事柄について理解したり意思疎通を図ることが極めて困難であるなど、精神的能力及び意思疎通能力に重い障害を負ってはいるが、手話通訳を介することにより、刑事手続において自己の置かれている立場をある程度正確に理解して、自己の利益を防御するために相当に的確な状況判断をすることができるし、それに必要な限りにおいて、各訴訟行為の内容についても概ね正確に伝達を受けることができる。また、個々の訴訟手続においても、手続の趣旨に従い、手話通訳を介して、自ら決めた防御方針に沿った供述ないし対応をすることができるのであり、黙秘権についても、被告人に理解可能な手話を用いることにより、その趣旨が相当程度伝わっていて、黙秘権の実質的な侵害もないということができる。しかも、本件は、事実及び主たる争点ともに比較的単純な事案であって、被告人がその内容を理解していることは明らかである。
2 そうすると、被告人は、重度の聴覚障害及びこれに伴う二次的精神遅滞により、訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をする能力が著しく制限されてはいるが、これを欠いているものではなく、弁護人及び通訳人からの適切な援助を受け、かつ、裁判所が後見的役割を果たすことにより、これらの能力をなお保持していると認められる。したがって、被告人は、第一審及び原審のいずれの段階においても、刑訴法三一四条一項にいう「心神喪失の状態」にはなかったものと認めるのが相当である。
3 以上によれば、被告人が第一審段階において訴訟能力を欠く心神喪失の状態にあったとした原判決の判断には、刑訴法三一四条一項の解釈適用を誤った違法があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するといわなければならない。
よって刑訴法四一一条一号により原判決を破棄し、同法四一三条本文に従い、本件を原審である大阪高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 遠藤光男 裁判官 小野幹雄 裁判官 井嶋一友 裁判官 藤井正雄 裁判官 大出峻郎)